最適化される社会

今ではあまり使うことはなくなったが、一昔前まではデフラグというツールを使って、パソコンのハードディスク内部であちこちに断片化しているデータを最適化していた。ハードディスクのなかでバラバラになったデータをきれいに整理してくれると、なんとなくスッキリした気分になったものだ。

 

デフラグはハードディスクという小さな箱の中の話であるが、いまやインターネットいう巨大な器に世の中のあらゆる情報が飲み込まれていて、渾然一体の様相となっている。いずれインターネット上に世の中のあらゆる情報が乗り、社会生活が行われる状態になったとき、巨大なデフラグみたいなものが動き出して、社会構造をまるごと見回して最適化を始めることだろう。いや、もうすでにその一部は動き出していて、部分最適化をはじめている。

 

最適化が進行していくと同時に、中央集権的に社会をコントロールしていた組織の影響力は小さくなり、今までにないフラットな社会が築かれようとしている。上司がエライ、発注する側がエライみたいな発想はもはや過去のもの。個人がインターネットにつながって協調しながら成立する社会では、上下関係はなくなっていく。お互いがフラットな関係で、その時その時、それぞれの役割を受け持っているだけのことなのだ。

 

旧来の社会で生み出された多くの組織や習慣は、最適化という波にもまれるなかで変化せざるを得ない。しかし巨大な船がすぐに進路を変更できないように、大きな組織になるほど慣性の法則がはたらく。何千人もの社員数を抱える企業の多くが競争力を失ってきているのは、変化に対応するために、より多くの時間を必要とするためだ。

 

高齢化も最適化を進める意思決定を遅らせる要因になり得る。高齢化した社会や組織の問題点は、最適化されていくプロセスに抵抗する人の割合が増えるということではないだろうか。変化を恐れず、チャレンジ精神旺盛な高齢者が増えるのであれば、何ら問題がないだろう。

 

旧来の組織の中にいる多くの個人は、今まで築き上げてきた経験や地位の価値が失われていることに気付き始めている。「自分の仕事は本当に意義があるのだろうか」と感じながらも仕事をしている人が増えているのではないだろうか。「ワーク・ライフ・バランス」という言葉は「ワーク=自分にとって意義があるかどうかわからなくてもやらなければならないこと」と、「ライフ=自分にとって、おこなう意義のあること」に分けてバランスをとろうというメッセージなのかもしれない。

 

インターネットの浸透によって社会が最適化されていくと、国家や会社の力は相対的に弱くなり、個人の力が強くなる。個人が自分でコントロールできる範囲が増えてくるので、自分の裁量で「自分にとって意義のあること」に取り組む自由度を増やせるようになる。逆に「自分にとって意義があるかどうかわからない」ことをやってくれる個人が減ってしまうと困る会社(経営者)はワーク・ライフ・バランスというメッセージを好んで使う。「ワーク=自分にとって意義があるかどうかわからなくてもやらなければならないこと」が前提になっているからだ。「働き方改革」も同様に、ワークが前提になっているので、国も会社も旗を振りやすい。しかし、皮肉なことに、会社が「働き方改革」を声高に叫ぶほど、自らの古めかしい組織や習慣が改革に向かう障害になることに気づく。そして、働く個人はワーク・ライフ・バランスも働き方改革もどこか違うと感じている。自分にとって意義があるかどうかわからないことを仕事にしていることには変わりないからだ。

 

個人はもっと開放されるべきだと思う。いま行うべき本当の働き方改革とは「ワーク」から「ライフ」にシフトさせていくことなのだ。旧来の組織や習慣を前提にした働き方改革ではなくて、より多くの人が自分でコントロールできる範囲を増やして「ライフ=自分にとって、行う意義のあること」に取り組める状況を作ることだ。しかし、残念ながらこの状況は国や会社が先導する働き方改革を待っていては、いつまで経っても実現されない。ほとんどの会社は「ワーク」してくれる存在がなければ成り立たない。

 

「最適化された社会」とはどのような社会なのか。それは突然に巨大なデフラグが動き出して実現するものではなくて、一人ひとりが本来持っている力を開放し、フラットな関係の中で「ライフ」を共有し、試行錯誤を繰り返しながら実現されるべきだと思う。現状とあるべき姿のギャップが大きいところほど、「社会を変える」大きなチャンスが潜んでいる。多くの個人は自分の人生の残された時間を使って、社会を最適化することに意義をもつことだろう。

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